■2013年06月
■逆説的に南京大虐殺を否定してません??
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今日は某中国人の反応を読んで知った事件を紹介します。
いや、ぶっちゃけると進撃の巨人に対して中国人が文句を言っている内容の話だった訳ですが。
その中で、何とか司令のモデルが秋山好古という軍人だったという話なのですが。
それで知ったのが……旅順大虐殺というものです。
日清戦争の旅順攻略の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件。
第一段階(11月21日午後~夕刻)
午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、第一師団所属で乃木希典少将率いる歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊に市内掃討の任務を命じたが、この二つの部隊が事件第一段階時点での当事者となった。
直接のきっかけはさきに触れた土城子戦後に日本軍死傷者に加えられた陵辱行為であった。鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃し激昂したのである。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発していたが、これ以後旅順の日本軍は文明とは反する敵討ち的感情にとらわれていくことになる。
なお、こうした清兵の死体損壊は、敵兵の首級や体の各部分を戦果の証拠とし、それに対し懸賞金を支払ったためであった。この事件の目撃者となった外国人記者は、首級に対し賞金が払われるのを見たと証言しているとからもそれが分かる。
敵討ち的感情を宿したまま旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、そこでまたやっかいな事態に遭遇する。清兵が軍服を捨てゲリラ的戦闘をしたためである。兵士と住民との区別がつきにくくなり、「終に民家に闖入して兵士と覚しき年齢の男子は引出して殺戮するの止むを得ざるに至れり」いう事態となった。
戦後、パリにて『日清戦役国際法論』を出版し日清戦争の正当化工作を担った有賀長雄(第二軍付国際法顧問)でさえ、この事件を隠蔽できるものではなかった。彼は事件第一段階の時には旅順郊外にて戦勝祝賀会に参加していたが、翌22日午前10時に旅順に入り、その時見た状況を「市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中の五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり」と述べている(引用は可読性を鑑み片仮名を平仮名に変えて掲載。以後同じ)。有賀の見た惨状は前日の戦闘のものであると思われるが、最も日本軍を擁護する任を負った彼ですら、『日清戦役国際法論』においてこの事件を触れざるを得なかったのである。さらに総責任者大山巌も弁明書において「二十一日に於て市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況」と述べている。
第二段階(11月22日以降の三日ないしは四日間)
事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、有賀が「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりも虐殺といわれる状況に近づいている。
この段階では掃討任務を引き継いだ歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊が当事者であった。
戦争中より従軍兵士の手紙が新聞などに掲載されることはよくあったが、上記の第二十四連隊の軍曹の手紙も掲載されている。
「夜明けて敵の敗兵十三名を捕す、然れども下士哨にて悉く之を剣殺す、予も三人やりつけたり。・・・敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし」(『福岡日日新聞』12月19日付)。
この他当事者ではない第一師団野戦砲兵第一連隊付き輜重輸卒であった小野六蔵は、日記に「11月25日 ・・・毎家多きは二三名の敵屍有り、白髭の老爺は嬰児と共に斃れ、白髪の老婆は嫁娘と共に手を連ねて横たわる、其惨状実に名状すべからず」と目撃したことを書き記している。
旅順陥落後の犠牲者はどの程度の数に上るのか。
この犠牲者とは基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者を指すが、その被害者数については諸説ある。
被害者は「万忠墓」という墓に葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国史料ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。
これは虐殺を生き残って死体処理に当たった中国人の証言に基づいている。
一方その他の証言は大きくそれを下回る。
有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
『タイムズ』(1894.11.28)・・・・200名
『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・2000名
フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1500名
以上は事件発生当時からさして年数が経過していない期間の証言であるが、現代の中国側の研究では2万名弱という数が定説となっている。
一方日本の研究では2000名弱~6000名という風にばらつきがある。被害者数の認定に大きな差異が生じているのは、正確な資料がないこともあるが、その事件の発生期間やどのような人を虐殺された人として認定するかについて懸隔があるからに他ならない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
中国の数字は水増しされたものだから、放っておくにしても。
約1500人を殺した程度で、ここまで事件があったことが問題視され正確な人数は分からないまでも数々の資料が存在していることが明白に分かるのです。
では、南京大虐殺と呼ばれる事件は如何だったでしょう??
日本人の報告は立場があり信頼しない方が良いことから、外国メディアによる報道を切り出してみます。
この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。
軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。
アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ(英語版)』や『ニューヨーク・タイムズ』、中華民国内では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として、それらが真実であるかのように報道されていた。
南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出たものの、事件初期において殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられていた。戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった。
一方で、これらの報道にも反論がある。
東中野らはこれらの根拠に乏しい虚偽報告がおこなわれた要因として、当時の中華民国政府からの多額の献金により、これらのマスコミが買収された可能性を主張している。
渡部昇一は、欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らず、それらに対する日本軍による掃討を「市民の殺害」と誤認した可能性があると主張している。
また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている。
無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある。
また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)。
『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン(英語版)通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。
漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。
南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。
南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。
また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。
またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)
旅順では欧米マスメディアによって告発をされております。
しかしながら南京では色々と報告はあるものの、それを問題視する声は少なかったのが見受けられます。
最悪でも旅順ではその後政治的問題になってますし、それについて伊藤博文が直接弁明しております。
そう考えると……被害者数が数百倍の南京において、旅順並の問題が発生しなかったのを考えると……逆説的に考えれば、政治的な問題になるほどの事件が生じていなかった。
つまり、戦争行為はあっても虐殺と国際社会が認めるほどの問題は起こっていなかったと考えられませんか?
便衣兵がうじゃうじゃいて、それの掃討に苦労した上、色々と巻き込んだってのは否定できませんけれど。
そもそも……それは戦闘行為の一環です。
それをもって戦争がいけないと主張するなら兎も角……中国側の主張する大虐殺とは趣がかなり違ってきますね。
まぁ、南京南京ばかりが耳に入り、旅順の問題は初めて知りましたので、ご紹介をと思いまして。
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