■2010年07月
■謝罪して解決するならば。。。(補足)
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一昨日の記事についての補足です。
前回の記事の頭にも明言していた通り、私は頭を下げることが国益に繋がるならば、それでも構わないという人間です。
が、韓国に対してだけは頭を下げることは容認できません。
それは韓国人を下に見る人種差別が根底にあるからだろうって??
そうじゃありません。
純粋に、間違いを容認できないから……です。
そもそも、韓国人の歴史観ってのがまずおかしい。

これ、韓国の教科書です。
新羅・高句麗・百済……って日本の教科書では習ったと思います。
↓こんな感じで。

何故韓国の教科書がこんな事になっているかと言うと、民族意識を高めるためです。
韓国人は昔は強かった。
だから、偉いんだ。
……という、韓国人の虚栄心を満足させるためだけに、彼らの教科書はここまで歪んでおります。
基本的に東アジアの歴史というものは、中国における資料を元に築かれております。
日本の資料も結構古いものが残されており、それを補助されているのでしょうけれど。
勿論、中国人ってのは誇張するのが好きな民族ですから、三国志の軍団の数は一桁落として考えなければならないという裏事情があったりますけれど、三国志があったこと自体は虚偽とは言えません。
そして、古代史においては日本と中国の差はほぼありません。
基本的に双方が同じ資料を使っておりますけれど、その中でも双方がやり取りした内容がほぼ史実として残っている以上、双方の国家があったことには疑問の挟む余地がないのです。
ですが、この歴史に異を唱えている人種が……まぁ、韓国人なんですけれど。
彼らの歴史観を認めて謝罪するというのは、この歴史観を受け入れるということです。
勿論、狂っているのは古代史だけではありません。


これらの画像は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形で、展示してあるものです。
ちゃんとハングル文字で開設もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が、我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてある。
……訳ですけれども。
そもそも、李氏朝鮮時代の拷問について、スウェーデン人 アーソン・グレブストが『悲劇の朝鮮』において曰く「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」
との言葉を残しているくらい、李氏朝鮮時代の拷問は酷かった訳です。
ですが、1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると朝鮮においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止されました。
朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となっております。
そして、1908年の法令改正により拷問した取調官は3年以下の懲役と定められ、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった訳です。
……つまり、大韓民国独立記念館にある、日本人による韓国人への拷問の様子というのは、実のところ李氏朝鮮による朝鮮人から朝鮮人に対して行われた拷問である可能性が高いのです。。。
……まだまだ事例はありますけれど、本当にキリがないのでこの辺りで。。。
要は、私は謝罪が悪いとは言いません。
日本人の謙虚さ自体は素晴らしい美徳だと思っておりますし、日本人が謙虚さをなくしたならば、そんな日本には住みたいとは思いません。
ですが、謙虚と虚言を呑むことは全く意味が違います。
謙虚と言うのは、あくまで主張を控え目に、素直に他者の助言を受け入れること。
他者の虚栄心を満たすため/欲望のための虚言を、虚言と知りつつ受け入れることではありません。
幾ら謙虚が美徳でも、検挙が最優先ではありません。
価値観にも優先順位があるのです。
一つ目は、真実。
既にあった事実と証拠は捻じ曲げることが出来ません。
二つ目に、仁……優しさ。
幾ら謙虚であったとしても、弱者を虐げるのを見過ごすのは人の道に外れます。
三つ目に、義……義理人情。
弱者でないにしろ、同盟国や友好国の窮地を見過ごすような国家は信頼を失い長続きしないでしょう。
四つ目に、礼……礼儀。
謙虚に生きるのは良いかもしれませんが、誰かの無礼を注意しないならば、それは同じく礼を失することになります。
五つ目に、智……知恵。
何が正しくて何が間違っているかをしっかりと見定める知恵がなければ、幾ら謙虚であっても無意味でしょう。
そして、信……信念。
ここで、ようやく謙虚さを貫くという信念を出しても構わないのです。
確かに謙虚さは大事ですけれど、その謙虚さを優先する余り、もっと大切なことから目を背けては意味が無いでしょう……という話です。
久々に、たった一人に対してのみという感じのエントリになってしまいました。
その他の50人くらい、ごめんなさい。。。
けど、これはこれで読み物としてはそれなりに完成しているかと。。。
本記事に1クリックの価値くらいは見出せたって方は、ブログランキングよろしくお願いします。
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前回の記事の頭にも明言していた通り、私は頭を下げることが国益に繋がるならば、それでも構わないという人間です。
が、韓国に対してだけは頭を下げることは容認できません。
それは韓国人を下に見る人種差別が根底にあるからだろうって??
そうじゃありません。
純粋に、間違いを容認できないから……です。
そもそも、韓国人の歴史観ってのがまずおかしい。

これ、韓国の教科書です。
新羅・高句麗・百済……って日本の教科書では習ったと思います。
↓こんな感じで。

何故韓国の教科書がこんな事になっているかと言うと、民族意識を高めるためです。
韓国人は昔は強かった。
だから、偉いんだ。
……という、韓国人の虚栄心を満足させるためだけに、彼らの教科書はここまで歪んでおります。
基本的に東アジアの歴史というものは、中国における資料を元に築かれております。
日本の資料も結構古いものが残されており、それを補助されているのでしょうけれど。
勿論、中国人ってのは誇張するのが好きな民族ですから、三国志の軍団の数は一桁落として考えなければならないという裏事情があったりますけれど、三国志があったこと自体は虚偽とは言えません。
そして、古代史においては日本と中国の差はほぼありません。
基本的に双方が同じ資料を使っておりますけれど、その中でも双方がやり取りした内容がほぼ史実として残っている以上、双方の国家があったことには疑問の挟む余地がないのです。
ですが、この歴史に異を唱えている人種が……まぁ、韓国人なんですけれど。
彼らの歴史観を認めて謝罪するというのは、この歴史観を受け入れるということです。
勿論、狂っているのは古代史だけではありません。


これらの画像は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形で、展示してあるものです。
ちゃんとハングル文字で開設もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が、我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてある。
……訳ですけれども。
そもそも、李氏朝鮮時代の拷問について、スウェーデン人 アーソン・グレブストが『悲劇の朝鮮』において曰く「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」
との言葉を残しているくらい、李氏朝鮮時代の拷問は酷かった訳です。
ですが、1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると朝鮮においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止されました。
朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となっております。
そして、1908年の法令改正により拷問した取調官は3年以下の懲役と定められ、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった訳です。
……つまり、大韓民国独立記念館にある、日本人による韓国人への拷問の様子というのは、実のところ李氏朝鮮による朝鮮人から朝鮮人に対して行われた拷問である可能性が高いのです。。。
……まだまだ事例はありますけれど、本当にキリがないのでこの辺りで。。。
要は、私は謝罪が悪いとは言いません。
日本人の謙虚さ自体は素晴らしい美徳だと思っておりますし、日本人が謙虚さをなくしたならば、そんな日本には住みたいとは思いません。
ですが、謙虚と虚言を呑むことは全く意味が違います。
謙虚と言うのは、あくまで主張を控え目に、素直に他者の助言を受け入れること。
他者の虚栄心を満たすため/欲望のための虚言を、虚言と知りつつ受け入れることではありません。
幾ら謙虚が美徳でも、検挙が最優先ではありません。
価値観にも優先順位があるのです。
一つ目は、真実。
既にあった事実と証拠は捻じ曲げることが出来ません。
二つ目に、仁……優しさ。
幾ら謙虚であったとしても、弱者を虐げるのを見過ごすのは人の道に外れます。
三つ目に、義……義理人情。
弱者でないにしろ、同盟国や友好国の窮地を見過ごすような国家は信頼を失い長続きしないでしょう。
四つ目に、礼……礼儀。
謙虚に生きるのは良いかもしれませんが、誰かの無礼を注意しないならば、それは同じく礼を失することになります。
五つ目に、智……知恵。
何が正しくて何が間違っているかをしっかりと見定める知恵がなければ、幾ら謙虚であっても無意味でしょう。
そして、信……信念。
ここで、ようやく謙虚さを貫くという信念を出しても構わないのです。
確かに謙虚さは大事ですけれど、その謙虚さを優先する余り、もっと大切なことから目を背けては意味が無いでしょう……という話です。
久々に、たった一人に対してのみという感じのエントリになってしまいました。
その他の50人くらい、ごめんなさい。。。
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